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ザ・ドリフターズ 桜井輝夫

ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ
ザ・ドリフターズ(英: The Drifters)は、日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃までバンドを主活動とし、それ以降は主としてコントグループとして活動した。通称はドリフ。1960年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。

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いかりや長介がリーダーに就任した当時は前リーダーの桜井輝夫が個人オーナーとしてメンバーの面倒をみる形をとっていたが、元メンバーの小野ヤスシら4人がドンキーカルテットを結成して脱退、代わって荒井注・高木ブー・石川サダオが加入して既存メンバーのいかりや、加藤、小山威、臨時雇いながらもメンバーであった綱木文夫も含めた7人体制になった後、最後に仲本工事が加入し、石川、小山が抜け、メンバーとして残った綱木を含めた6人体制の新生ドリフに切り替わった。
間もなく綱木が脱退したものの、この時は代替のメンバーを募集せずに5人構成に減らしたが、活動が安定すると桜井輝夫はザ・ドリフターズの将来を見越してすべての権利を渡辺プロダクションに譲り渡した。
1979年より当時のマネージャーだった井澤健(後述)が全額出資で立ち上げた「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。
元々ドリフは純粋なバンドであり、お笑いとは程遠い存在だったが、桜井輝夫がリーダーになってからは、コミックの要素を音楽に取り入れるようになった。
当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合!」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めていた。
これが後のキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来である。
コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの物が多かった。
そして新生ドリフになった後からは、グループの活動はお笑いが中心となっていった。
初代リーダー。
元・東京ウェスタンボーイスの出身。
1959年の春頃に脱退。
1956年秋マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。
1959年桜井輝夫にリーダーの座を譲り、脱退して渡辺プロのマネージャーとなる。
その後芸能事務所「第一プロダクション」社長を歴任したが、第一プロは2017年9月に業績の悪化と自身の高齢化もあり解散。
音楽出版社協会(MPA)副会長、音事協の名誉理事を兼任。
2019年2月11日、肺ガンにより死去。
1957年11月に山下の脱退後、サンズ・オブ・ドリフターズのボーヤから昇格。
バンド名に自身の名前が付けられていたが、同じくバンド名に氏名が含まれていた桜井輝夫やいかりや長介とは異なり、リーダーだったわけではない。
そのため、リーダー以外でバンド名に氏名が含まれていた唯一のメンバーでもある。
長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。
水原弘(のちに守屋浩と交代)、守屋浩、釜萢ヒロシと並んで「三人ひろし」と呼ばれるロカビリー歌手 映画「青春を賭けろ」にも出演 代表曲は「雨に咲く花」。
ドリフ脱退後も暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になる為の修行を始めるが、急性心筋梗塞のため死去。
1959年井上ひろしとドリフターズの最末期にボーヤとして加入し、1960年の桜井輝夫とドリフターズ結成時にメンバー昇格。
ボーヤ加入直後はメンバーの小山仁義の家に居候していたという。
1964年の夏に、いかりやのワンマン体制に対立して反発。
それを機にドリフを脱退した。
後述するクーデターにより、ドリフが現在のメンバー構成となるきっかけを作った人物である。
小野脱退以後のメンバー構成が世間では「ドリフターズ」と認知されている為、小野がドリフの元メンバーであった事を知っている人は数少ない 脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にドンキーカルテットを結成した。
1970年、6年間に渡って活躍したドンキーは解散する。
これ以降はソロ活動する様になり、テレビの司会やバラエティー番組などで活躍 ドリフ脱退後も加藤との交友関係は続き、1993年には加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成している。
2012年腎盂ガンのため、都内の病院で死去した。
1960年に桜井輝夫とドリフターズ結成直後に加入。
解散寸前だったドリフの復活に尽力したが、担当をしていた楽器等の詳細については資料が現存していない為、本人の現在の動向も含めて不明である。
正式なメンバーではなく専属シンガー。
1960年5月、第一プロダクション(ドリフターズの初代リーダーとされる岸部清が創業し、当時社長を務めていた芸能事務所)主催の新人ロック歌手コンテストに入賞して芸能界入り。
桜井輝夫とドリフターズにボーカルがいなかった事から抜擢され1961年〜1963年頃、木の実ナナと共にドリフターズの専属シンガーだった。
高校生でウェスタンカーニバルの出場資格を得た程の実力者だった(ただし、当時在籍していた高校から出場許可が得られなかったため、実際には出場していない)。
現在の動向は不明である。
1964年の16歳の時ジャズ喫茶へ入り浸っておりそこで知り合ったのが桜井輝夫とドリフターズ。
知り合った縁からなし崩し的に約1年間付き人に近いことをやっていた。
その際、当時ドリフターズのリーダーである桜井にジャズ喫茶のオーディションを紹介されて応募し、「僕のマシュマロちゃん」という曲を歌って見事に優勝を果たす。
その後は作曲家の和田香苗の門下生となりドリフの付き人からは離れた。
1957年11月、山下は曲直瀬信子(渡辺プロ名誉会長渡辺美佐の妹)の手でバンドグループウェスタンキャラバンへ引き抜かれて脱退し、代わりのボーカルとしてバンドボーイから井上ひろしが昇格。
1958年初頭にのちの2代目リーダーとなる桜井輝夫が加入する。
1958年5月バンド名を「井上ひろしとドリフターズ」に変更したが、井上はバンドリーダーではなかった。
井上は「ミュージックライフ」1958年4月号のウエスタンロカビリー部門では20位に入っている。
1958年8月、一時期は同じくバンドボーイには正メンバーへ昇格した坂本九も在籍。
坂本はバンド内でボーカル兼ギターではあったが、アイドル顔好きの岸部から「その顔ではメインボーカルは無理」と言われ、主にギターを任される事となった。
しかしどうしてもメインボーカルとしてやっていきたい思いが強かった事から、日劇ウェスタンカーニバル出演後にこれまた曲直瀬信子に見初められて加入後わずか6ヶ月余りで引き抜かれ、「一旦芸能界を休業し学業に専念のため脱退」という形を取った後ダニー飯田とパラダイスキングへ加入した。
この時岸部は、渡辺美佐の依頼を受け、日劇ウェスタンカーニバルの構成を手伝ったにも拘わらず、引き抜かれた事でかなり立腹していた。
その後、坂本の後釜として城操(ボーカル)、小山仁義(ボーカル兼ギター)が加入する。
1959年11月、井上の独立と相前後して桜井とバンドボーイ的な立場だった小野以外のメンバーが桜井の路線変更に反発し全員脱退。
1959年12月、一部メンバー(能勢、吉田)が柳田六合雄をリーダーとするファイブ・サンズを結成して単独及び井上のバックバンドとして活動を始める。
これでドリフターズは解散の危機に見舞われ、桜井は歌謡曲路線と決別してグループ名も「桜井輝夫とドリフターズ」となる。
しかしグループにはメインボーカルがおらず(桜井と小野はセカンドボーカル)苦肉の策として専属シンガー高松秀晴をメインボーカルとして加えてバンドとしての体を整えていた。
2022/6/22(水)
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